聞き書き

芳賀亀雄|葺師

「左足で板を支えておくわけだ」。腰を下ろし、厚さ数mm、幅10cm、長さ30cmあまりの杉板を左足の裏と木台の側面の間に挟む。

「右手で鉈を持っての、それを板の上にトンと乗せた瞬間、左手でテン!と叩くもんだ」。

羽黒町手向に住む芳賀亀雄さん(92)は生き生きとかつての生業を語る。木羽(こば)、あるいは杮(こけら)とは呼ばれる薄板を重ねた屋根の葺き方を木羽葺(杮葺)という。冬季90cm以上の積雪を一身に受ける羽黒山の建築物の、五重塔や参道沿いの末社、山頂の斎館など木羽を葺いたのが芳賀さんだ。

木羽の制作は文字通り「真剣勝負」。鉈は刃渡り27cm。極薄の板の中心線に当てる鉈が少しでも逸れれば、板を支える左足の親指はなくなるだろう。淡々と鉈を叩き続けて3年が経ったころ、「自然と刃先が見えるようになったもんだっけ」。

芳賀さんは十五歳でこの道に入った。父富蔵さんが杮葺棟梁として一門を率い、羽黒山五重塔の屋根葺替えを請け負っていたころだ。 軒付(のきづけ)木羽という、屋根の先端部に用いる厚さ六分(約2cm)の屋根板制作が最初の仕事だった。「木見れねば木羽割れねえもんださけ」と、杉皮の肌から中身の材の良し悪しを見分ける術も習得していった。

21歳の時、芳賀さんは第三十四対空無線隊に配属されベトナムへ渡った。地上から特攻隊の操縦士へへ無線で通信を行う部隊で、想像を絶する熾烈な戦火を掻い潜った。「もう人を騙したり、仕事を誤魔化したりなんて、絶対出来ねえ」。他が伺い知ることの出来ない、そんな思いを胸に刻んだ。

日本に戻り、だんだんと仕事を任されるようになり、27歳で斎館の木羽を葺いた。その仕事は富蔵さんが任せたようだ。富蔵さんは山師として、卓越した「木を見る術」を持っていた。息子の職人としての将来も同じように見つめていたのだろう。芳賀さんは職人として、若くして大きな経験を積むこととなった。

五重塔は元々仏舎利。釈迦の遺骨を収めた墳墓で、この世でない世界へ通じる柱が五重塔の原型だ。テン、テン、と音を立てた職人の技はもう聞こえないが、深々と降り続ける雪に凛として立つこの塔は、過ぎていったいくつもの生命を今も見守っているように思える。

芳賀亀雄

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