聞き書き

「話聞きてってか」。

受話器の向こうは、満九〇歳と思えないハリのある声。朝日村大網に住む渡部志げさんは、庄内から月山の裾を回り湯殿山に入る手前の山深い集落で、「おえ」という植物を用い、見事な草履をつくっている。

志げさんが生まれたのは大網の七五三掛(しめかけ)。出羽三山参詣路・六十里越街道にある月山・湯殿山への登山口の一つだ。集落は山肌に開かれた。即身仏で知られる注連寺からの緩やかな下り坂に家々と田畑と道が広がる。斜面は南向きで溢れんばかりの日差し。軒先からはるか月山を望み、霊峰の残雪が「種まき爺さん」の形になれば田植えが始まる。

「ここは川がないからの、子どもの頃はこの池でよく遊んだもんだ」。

集落を背に注連寺と本明寺を結ぶ十王峠という道を行くと、途中に大きな池がある。「おえ」は、こうした谷地や湿地に生え、背丈1.5mほどに生長する。呼称はカヤツリグサ科フトイの地方名と思われる。大網では昔からこれで草履や籠が日用品としてつくられてきた。

刈り入れは土用の丑の前。盆になると好天が続くので、地面に広げ夜晒しで乾かし、束にして冬までしまっておく。春になれば雪室を掘り、中に火鉢を入れ、硫黄でいぶす。おえに住む虫を出し、かびを防ぐためだ。そして使う分だけ水に浸し柔らかくして、「おえ草履」は編まれる。

「生きがいだの」。

3年前、七五三掛は大きな地滑りで家々が沈下、志げさんも引越しを余儀なくされた。今は大網の別集落に住むが、家の一角の小さな「工房」で編み続けている。つくることのもつ意味が、災害を通して響いてくる。

「覚えてる人がいるさけ」

待ってる人がいる。ご近所の人が使う草履の磨り減り具合から編み方を変えたり、縁や鼻緒を丈夫にしようと稲などの別素材を混ぜたり。雪室いぶしも創意工夫の賜物。「いたずらしてんなや、自分の好きなものをや」とはにかみつつ、それをやめない理由がある。

生きがいがある。小さくても親密なコミュニティがある。志げさんの手仕事を見つめながら、僕たちの未来を編んでいくものに、改めて出会った気がした。

渡辺志げ

1922年山形県鶴岡市(旧朝日村)大網字七五三掛生まれ。湯殿山を詣でる道者(参詣者)で栄えた七五三掛は一面に桑畑の広がる集落で、昭和四十年代から養蚕に従事。飯場の手伝いや紡績工場への出稼ぎを経て、おえ草履の制作を開始。2009年大規模な地滑りによる移住後も、創意工夫を凝らしながら生きがいとしての手仕事を編み続けている。

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