「足元をよく見ろ。眼に入らないか」「足元?」「イヌドウナ。それも食べられる山菜だ」。
山桜の煙る頃、月山渓谷の斜面はいち早く雪がとけて陽が当たり、ゼンマイ、ヤマウド、オウバギボウシなど、たくさんの山菜が次々と顔を出してくる。谷底に残る厚い雪は川にとけだし、生まれたての風が渓谷を吹きあげる。滑り落ちそうな道なき道を、僕たちは山菜を求めて歩いていた。
「葉の根元が広くなって茎を抱いてるだろう。そこでヨブスマソウと見分けるんだ」。
前方で立ち止まり、そう言葉をかけてくれたのは芳賀竹志さんだ。月山頂上小屋を営む彼に出会い、僕はそれまで若緑一色にしか見えなかった草々にさまざまな陰影を認め、足元に計り知れないほど深く、豊かな世界が広がっているのを知ることになる。
「みんな“雑草”みたいに見えるんだけども。ひとつひとつに生命があって、扱い方次第でどうにでもなる。自然との付き合いはその場限りじゃない。だから必ず気遣いが必要になってくる。でも、それはあらゆることに対してもいえることなんじゃないか」。
翌年もまた生えてくるように、ゼンマイは株立ちの数本を残し、上から20cmぐらいだけを採る。きのこは斜面の下方に向けて倒木したブナが三夏を越すと生えてくる・・・。山菜、きのこ、薬草。その採集、下処理、調理、保存の仕方。月山の守り人のような芳賀さんの抑制された言葉と行動から、僕は多くを学んできた。何より彼の山の見方や接し方に、この土地に息づく「ほんとうに大切なもの」を肌で感じてきた。
中学生のとき阪神淡路大震災が起こり、裸で荒地に投げ出されたとき、僕たちにほんとうに大切なものは何だろうかと考えた。続くバブル崩壊などの経験から、大学で「自然」について哲学的に考え、地域おこしに携わり、出羽三山で山伏となる道を歩んできた。
「足元をよく見ろ」。
いま、その言葉は別の響きをもって聞こえてくる。僕たちはどこに立ち、足元には何が広がっているのか。山伏は自然との対話を繰り返してきた人びとだ。僕も先人にならい、この土地の声に耳を澄ませ、書き記していきたい。